「 先駆者 」 マタイ11:2~9
「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。」7節
この箇所を読むと私は韓国の歌曲、「先駆者」を思い出します。
♪一松亭の青松はだんだん老いていっても 一筋に 海蘭江は 千年を通して流れる 先日川辺で 馬に乗って駆けた 先駆者 今はどこに 荒々しい夢にふけるのか ヨンドゥレ井戸辺に 夜の鳥の声が聞こえる時 意味深い龍紋橋に 月の光は静かに輝く 異郷の空を見上げて 矢を射た 先駆者 今はどこに♪
イエスが世に出る前にヨハネという先駆者(さきがけ)がいました。
牢にいるヨハネ がイエスのうわさをきいて、自分の弟子を送ってメシアかどうかの真偽をきいてこい、といっています。
【ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。 】
クリスマス前にこの箇所をみんなで考えてみましょう。 ヨハネを先駆者と考えると、歴史的なターニングポイントでは彼のような存在がそれぞれの国、民族、集団にあらわれています。
例えば、ガザ出身の医師イゼエルディン・アブラエーシさん。 5人の娘のうち3人がそして姪がいのちを奪われました。
『それでも、私は憎まない』という本を出版しています。彼は憎しみという病は健康と平和を侵す伝染病として研究。教育が解毒剤だと。ガザで起きていることに目を閉じてはいけない、と。
荒野に立って何を見るか。 翻ってこの言葉は特別なところで、特別な人だけに言われているのではなく、私たち自身も当事者として、自分が立っている荒野で何をしているのか問われていると思います。アドベントの迎え方はいろいろありますが、荒野に立って、見るべきものをみて、なすべきことをしっかりとつかむこともその一例でありましょう。 昨日、韓国では老いも若きも歴史を反対に向かわせてはならないと叫びました。そして、踏ん張ったその足、その一歩が危機を踏みとどまらせました。