「 よそ者 」 マタイ8:18~20
イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」20節
昨日、渡邊さゆり牧師よりスリランカから日本に来ているナビンさんという
方が移民の申請が退けられ強制退去の命令が言い渡された、との知らせがあり
ました。病を抱え、日本人の妻のいる方です。入管のやり方に憤りの涙が止ま
らないと渡邊さんはFacebook で書いていました。
「よそ者」という響きは心地良いものではありません。
先の選挙以来、巷で言われている「日本ファースト」という響きは「よそ者」
を排除しようとするものです。
当時のユダヤの社会では律法に従うことが「安住」になり、宗教的にも社会
的にもその枠に居ることが人々の心の拠り所でした。
イエスはその枠を超えて、「神の国の福音」を語るためにあえて「家なき
者」として歩みましたし、弟子たちに「あなたたちは本当にこの道を歩む覚悟
があるの?」と問うています。
民俗学者の宮本常一は、「よそ者が村に知恵や技術をもたらすことで、共同
体が活性化する」と述べています。また、哲学者ジンメルは「よそ者は距離を
持つことで、共同体を客観的に見つめ、変革の可能性を開く」と語りました。
「あなたもかつて、よそ者だった」この認識が、他者へのまなざしを変えるの
です。
イエスもまた、よそ者として生き、よそ者に寄り添い、よそ者であることを恥
じるのではなく、よそ者扱いされたところが、むしろ神の働きの場として受け
入れました。
「あなたがたもエジプトの地で寄留者であったからである」(申命記10:19)
一歩進んで、当事者性→「よそ者性」を自分の中に見出して生きる私たちであ
りたいと思います。
どこかに安住していると、ほんとうの自分ではなく、その組織の奴隷になって
いるかも知れません。たえず覚めた感覚で「よそ者性」を大切にしましょう。