「 平和の準備たる履物 」 エフェソ人への手紙6章10~16節
「平和の福音を告げる準備を履物としなさい」15節
8月は平和を考える月です。地球上のあちこちで戦闘が絶えず、驚くべき数の
尊いいのちが毎日失われています。
マタイの5:9には「平和を実現する人たちは幸いです。その人たちは神の子
と呼ばれる」
とありますから、自分も少しは平和を実現する者になりたいとそれなりに思
っています。
ただ、どうすればよいのか? 銃を持って戦いに加わる、旗を振ってデモをす
ることもままならず、というところで留まっているわたしたちです。
しかし、本日の箇所は神の武具を備えて悪と闘いなさい、と書かれている書簡
です。ヒントになるでしょう。ここで、
真理は帯、正義は胸当て、信仰は盾と書いていますが、
「平和の福音を告げる準備が履物」はどういうことでしょう。
王陽明が15世紀に「知行合一」という思想を語りました。
形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説き、
「知(知識)」と「行(実践)」は本来一体であり、切り離すことはできないと
いう考え方です。「知っているのに行わないのは、実はまだ知らないのと同じ
だ」と説きました。
つまり、真に「知る」とは、それが自然に「行動」に現れることであり、知
識が行動に結びついていないなら、それは未完成な知識だとされます。
聖書の素敵なことばがあり、それに感心をしていても何の努力もしなけれ
ば、上記と同じことだとつくづく思い知らされます。
「平和の福音を告げる準備」とは家族、友人、組織の中で緊張があり、関係が
ぎくしゃくしていたら、そのところでいかにして、それを和らがせるのかが問
題です。まず自分のこころが安定していて、売り言葉に買い言葉ではありませ
んが、行く言葉を柔らかにすることも含まれているでしょう。それは易しいよ
うで難しいことかも知れません。
だからこそ日常の生活の中で「平和の福音を告げる準備」をすることで真の
闘いに出かける「履物」が与えられるのではないでしょうか。努力は続けまし
ょう。毎日がこの準備の時です。