「人のさが」マルコ9:33~37

「わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」37節

 先週の当教会での映画鑑賞で「シークレットサンシャイン(密 陽)」を観ました 。
宗教とは、赦しとは、救いとは、愛とはと多方面において考えさせられる映画でした。

 キリスト者として、いつも「 私 」は何をどう信じてるのかを明らかにして置かなければ、昨今の政治と利益を鼓舞する宗教との癒着の問題ではありませんが、信仰告白の質が問われると思います。

 本日は「人のさが」というタイトルにしましたが、なんと後でわかりましたが、昨日8月6日の平和記念式典の広島県湯崎知事の挨拶「核兵器は現実の今そこにある危機」に「さが」が使われていたのですね。

「ウクライナ侵略で世界が突然変わった訳ではありません。世界の長い歴史の中で、理不尽で大量の死を招く暴力は、悪により、しかし、時に正義の衣をかぶりながら、連綿と繰り返されてきました。現在の民主国家と言われる国でさえ完全に無縁とは言いにくいかもしれません。
 人間の合理性には限界があるという保守的な見方をすれば、この歴史の事実を直視し、これからもこの人間の性(さが)から逃れられないことを前提としなければなりません」

 イエスに対して、弟子たちはじめ追従者たちは、彼を偉大な霊的な指導者として崇める傾向がありました。それに対してイエスは「私を、ではなく、私をお遣わしになった方を受けいれなさい」と言い続けました。

 このテキストの直前では、弟子たちが誰がいちばん偉いのかと自分たちの中で議論していた、とあります。イエスに最も近い彼らが、です。

 90年前に「静坐」を教え始めた岡田虎二郎は弟子をとりませんでした。農業をとおして宇宙の大いなる存在に目が開かれ、「神は愛なり」と説き、人間の本来あるべき姿をただ座ることで見出し、その伝道者として働いたのです。今、この時代にこそ、知られるべき人物でしょう。