「イエスの約束」 マタイ26:26~28、Ⅰコリント人11:23

「取って食べなさい。これは私の体である。」26節

 今週は受難週です。イエスの十字架への道行をたどる最後の週でもあります。
 本日のテキストは絵画にも多く描かれている最後の晩餐というところで す。 イエスの言葉をとおしてもう一度このところを深く考えてみましょう。

 最近のこと2つで2か月振りに会いました。いつもは1年に一度4人で会っているのですが、今回はのっぴきならない事態が生じて短期の間に再会することになりました。中に特定非営利活動法人の理事長もいます。施設を3か所運営をしていて、従業員は25名。厳しい仕事の中でよく倒れないで頑張っているなあといつも感心していました。帰りに他の仲間と別れてから私を車で教会まで送ってもらう中で、彼が実はカトリックの幼児洗礼を受けていると分かりました。謎が解けた気分でした。どんな時も笑みを絶やさず、働く仲間から慕われています。
 
 先週は引退牧師のお連れ合いさんと話しました。いままで、優しくしてもらえず、どちらかというと家柄、学歴その他でバカにされて来たけど、今は
『やるべきことができなかった、死が怖いという彼が哀れで・・・・・』と。

 パンを裂いて祝福することは、イエスが始めたことではなく、家の主人が食卓からパンを取り、隣席者全員の目の前で上へと持ち上げることで、食事が始められます。パンを高く持ち上げたまま、主人は神様を次のように賛美します、「私たちの主なる神様、世界の王様、地がパンを産するようにしてくださるあなたが、褒めたたえられますように!」。この言葉に来客は「ア-メン」と唱和します。この後で、主人は食卓についている人数に合わせてパンを裂き、それを皆に配ります。それから、食事をします。イエスの聖餐式はこれを踏襲し、食事の後にぶどう酒の入った杯とそれに関するイエス様の御言葉が続きました。コリントの信徒たちが聖餐式の誤用をしているので、使徒は真剣な警告をしました。主の聖餐にふさわしくない態度で参加することは、主の死に対して罪を犯すことを意味します。

儀式が重要なのではなく、共に食し楽しい明るい交わりの時こそ尊ばれるべきで、ましてや「受洗していない人は聖餐に与るべきではない」という考えは神の無条件の愛を伝えたイエス・キリストへの冒涜と思いますが・・・・。