「よみがえりの日」 ローマ14:9、 ヨハネ黙示録 1:17b~18

 「 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」「その方は右手をわたしの上に置いて言われた。『恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、 また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。』」

イースターおめでとうございます。

3月にたかのてるこさんを呼んだ余波がまだ続いています。
知人の夫に「死が怖い」と言う人がいることを分かって、てるこさんの「笑ってバイバイ!」と「生きるって何?」をプレゼントしました。受け取って読み終えて、その彼が直接私に「良い本をありがとう!」と明るい声で言って来ました。

 復活は死んだ魚が生き返ったということではありません。復活信仰はキリスト教の十八番(おはこ)と思っている人がいます。しかし、古今東西の偉人などの伝承のお話の中には復活信仰はたくさんあります。 勉強不足で思い違いをしないでおきましょう。
 よみがえり→黄泉がえりは恐れに満ちている死の淵から帰られたということです。 民衆神学の故徐南同教授は「革命のために立ち上がること」と言われました。 韓国の民主化と闘った人たちへの福音です。

 東八幡教会の奥田知志牧師はこのように語っておられます。「考えて欲しい。権力の暴走、弟子たちの裏切り、虐殺。それで終わっていいはずがない。権力者たちは邪魔者を消すことで「勝った」と思う。「死人に口なし」。それが権力者の因って立つところだ。それで終わるとしたら一体どうなるのか。権力者は、弟子たちは、そのままでいいのか。殺された人々はどうなる。権力者への裁きと彼らの解放はどうなる。なにより「見捨てて終わりの神」でいいはずがない。そんな神はいらない。十字架、つまり「イエスの死」をもってすべてが終わるなら「強いもの勝ち、悪い奴が勝つ」が結論となる。「終わらせるわけにはいかない」からイエスは復活するのだ。」

 新しい命に生きる復活したイエス。若者、小さな子たちが殺されている現状が世界に満ちています。イエスは嘆いています。復活を評論するのではなく、死が怖いとしたら、死が最終ではないところに立ち生きるのです。死は襖絵(ふすま)を開けたそこにある、とアイヌの人はいうそうです。小倉正宏さんの墓標に、「天地に存在の永遠にあるを感謝する」とあります。死んでいくところが天ではなく、ここも天なのです。日々、復活を生きるわたしたちでありたいです。