「どんな神を探すのか」 使徒言行録17:22~29

「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのはこの神だからです」 25b

 改正ではなく改悪の入管法が金曜日に衆議院を通過してしまいました。夜のzoomでのミャンマーを覚え祈る会で、数人の人が涙を流していました。どれだけ悔しく悲しい思い をしている人たちがいることか。 わたしたちの住む社会はどこに向かっているのでしょう。苦境にある人と寄り添って共に歩むことを拒否することは、自分を拒否することに繋がります。

 ギリシャのアテネのアレオパゴスの丘でイスラエルという狭い領域だけではなく世界を視野にパウロは語りました。《知られざる神に》にという文字 を書いた祭壇を見て話すパウロ。

 「人が探し求めさえすれば、神をみいだすことができるようにということなのです」 27節

 カルヴァンは「人間の心は、偶像を絶え間なく生産する工場である。」と言いました 。どんな神を神としているのかは、その人の最も大きな関心事が掛っています。

 この世では富や社会的地位や目に見えるものがないと人として成功していると言えないと思い込んでいる人は少なくありません。人生とは突き詰めると、神探しでしょう。お金や財産、名声も神になります。まことの神に出会う近道を見ないで歩き続けるのはもったいないことです。

 近道は自分の心を探ること、とはイエスの教えでもあります(ルカ17:21)

 近年、神とはどんなものなのかは、旧態依然の神像から変化しています。
① 今まで人間と同じ人格を持った神と想像されていたが、果たしてそうなのか 。
② 規律を与える父権的な神から優しさ、愛、包み込む、保護する女性的な存在の神。
③ 「天にまします」と主の祈りで唱えられて誤解を招く天界に住んでいる外的な神から、心の中で出会う神的存在などとではないでしょうか。

 自分で探すべきことは、生きる意味と神さがしであり、二つは同じことで 、どちらが欠けても不完全感が残ります。愛と赦しの神は、今生きる意味の探求に繋がっています。来る1週間も心安らかに歩む者でありたいものです。
よりよく生きることに来る1週間も励んで歩みましょう。