片柳弘史神父のことばに応答して 申 英子

「どんなに考えても自分の人生の意味が分からないなら、それはあなたの人生に、簡単に理解し尽くせないほど深い意味があるということ。
 今わからなくても、自分の人生には必ず意味がある。そう信じて、一日一日を精いっぱい生きられますように。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。」 
                      片柳弘史 神父

 慰められる言葉です。
 自分自身のこともそうでしたが、長く生きているといろんなことがあります。
 身近にいて最近帰天した人の半生を見て来た者として、「なぜ、あなたはご自分の人生をそんなに考えてしまうの? もっと視点を変えて、と思っていました。亡くなってみてわたくしの見方、ものの考え方が短絡的であったことをしみじみと反省しています。いつも、わたしはこの世の生とあの世は繋がっていますよ」と偉そうに言っていましたが、実際にはわたしの狭い了見をずっと超えてほんとうに真実だなあ、と実感させられています。

「人生は、自分だけが最初から最後まで読み通すことのできる一つの物語。途中の数ページを読んだだけの人に、その価値を判断できるはずがありません。

 最後のページを閉じるとき、自分が本当におもしろかったと思えたなら、それで十分なのです。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように」。 片柳弘史神父

 自分自身のこともそうですが、ある人のことを、見えている現象、それもわたくしという限られた人生しか生きていない者が、軽々しくその人のことを断定的に決めつけることは避けたいものです。
 今日もある人との会話の後に、このように反省しています。

 誰かのことを知ったかぶりをすることは、たとえ家族、いや家族であるからこそ気をつけなくてはならないのでしょう。
 イエスは「こうして、自分の家族の者が敵となる」(マタイ10:36)と言いました。
分かり合えている、という幻想は捨てて、「敵を愛す」ことの深さを味わいながら
日々過ごしたいものです。