「 必要な糧(かて) 」 マタイ6:11

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」11節

 毎日、これでもかこれでもかというくらいひどい戦争の報道。
無辜な市民が殺され、または傷つき、食べる物もなく放置されています。そこで は「必要な糧」は文字通りパンやごはんです。
 故金芝河(キムジハ)が「 飯は天だ(パブンハヌリダ)」を書いています。 まさしく飢えて死にゆくような人にとってはこの言葉とおりでしょう。

 しかし、今の私たちにとってはこの糧は口から入れて、胃に到達する食べものだけ、というより、もっと切実なものがあります。

 感動もなく、心にストンと落ちることが何もなく、一日を過ごすことは今日、必要な糧を得ていないのと同じではないでしょうか? 明日ではなく「今日」です。

 感動は特別なイベントやドラマからではなく、日常の出来事の中にドラマチックなことがあるのです。「与えたまえ」は見落としている心の糧に気づかせてください、ということでもあります。

 先日、「フランシス・レイ追悼コンサート ライブ」に行く機会がありました。「ある愛の詩」「男と女」「白い恋人」などの映画音楽もたくさん作っています。無料でその切符が2枚入ったので、と誘ってくれた彼女はわたくしが 夫を最近天に送って50日が経ったこと、自分の父の命日とその日が同じなので、自分とわたしを慰めるためでした。ご本人はレイも知らず、映画もほとんど見ていない若い人です。彼女は私がずーっと気にかかっていた人でしたのでとても嬉しかったです。

「必要な糧」とは自他を愛することと、他者にむけての思いやりや祈ることも含まっているでしょう。今日も大いなる愛を信じて歩みましょう。