「 出会い直し 」 1コリント13:12
「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」12節
今日は、今は亡き親しい人たちを偲び、生きている者がよりよく前を向いて生きようと決意を新たにする日でもあります。
巷では10月31日はハロウイーンになっていますが、11月1日に定められているの前の日、「聖人の日の前、イブ」という意味です。だとしたら、あのお祭りを表して意味のないバカ騒ぎと揶揄(やゆ)するのはどうかと思います。
わたしたちの周りの親しかった人、両親なども含めて、の死を覚えるとは、重ねて言いますが、残された者が残りの人生の道筋を整える時でもあります。
ただ、本日の聖書の箇所を読むとよくわからないこともあります。
「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」 12節
鏡を見ているようには、鏡はほんとうの姿ではなく反射ですね。でも「そのとき」神の国に行ったときは(この地上でも)神と出会い、こちらが求めても求めなくても、知っていいてくださる、だから「知られているように」となっています。知られていることが、前提ですがこれを信じられるのは素晴らしいことです。
「さよならのあとに」の本の翻訳にいたる経過をつづった記事が先日の朝日新聞に掲載されました。このような本をはじめとして、エッセイ風、科学的な書物にも、死はただ、さよならではなく、この世とあの世の隔ては厳格にあるのではなく、隣のふすまを開けたところということが解明され、かなり多く言われて来ています。
今年、8月末に53年間連れ添った夫を天に送った者として、いままでおぼろげに分かったつもりのことが一部実感として理解できるようになりました。
結局、信仰の醍醐味は「はっきり知られているように」でしょう。大いなる存在(神)によって私たちは自分が自分を知っているより、はるかによく知られている。無条件の神の愛にゆだねられる幸いは他に比べられません。
「天地に存在の永遠にあるを感謝」小倉正宏 2年前に帰天されたドイツ文学者、脚本家の彼が帰天する前に、このように思われてご自分の墓碑に刻まれた言葉です。もう、全部、おっしゃっておられたのです。心に刻みたい言葉です。