受難節「 真理と自由 」 ヨハネ8:31~32
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」32節
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」 (ヨハネ14:6)
この聖句は、最後の晩餐において、イスカリオテのユダが、その場所を去った後、イエスが残った弟子たちに、これから起こる出来事(死、復活、昇天、 再臨 )のことを教えている箇所です。(キリスト教がよくわからない方はイエスを「愛」と置き換えてみてください)
真理については、「真理とは何か?」と私は10歳の時から考えていました。父が37歳という若さで出張先の札幌で急病死した頃でした。
いろいろと考えていくうちに真理が自由とつながっているということが分かったのは数十年後でした。人生の中で徐々に知って行ったと言えます。
そして今日のこの聖句が決め手でした。どんなに立派に「これが真理だ」と定義されていたとしても、「わたし」が自由にならなければ、それは真理ではない、と思えるようになったからです。
今朝のEテレのこころの時代は衝撃的でした。牛飼いの吉沢正巳さん。
「185頭と一人」この13年間、福島原発事故で、被曝して置き去りにされた牛たちの世話を続ける「希望の牧場」という名の牧場の主。70歳。
「俺も人間で生きているし、この牛たちも死んでいないんだよ。生きてる。元気よく。あらゆる矛盾を抱えながら、切ない矛盾とともに、生きるんですよ。」
アホかと言われながら。「逃げないで向き合う」彼から真珠のような言葉が出てくる。
でも彼は、真理はこれです、と定義しない。いのちを生きる牛たちと迷路を歩き 「むなしい!」意味のないことの意味を問いながら、今日一日乗り切って明日のために生きている。
翻って私たちは自分が本当に自由になるよう努力しているだろうか。真理は定義されるものではない。それぞれだろうけど、問題は真理と出会っているだろうか。 今日も「真理と言われたイエス・キリスト」の伝える「神は愛」を感じているだろうか。