受難節「 目を覚まして 」 マルコ13:32~37

「 気をつけて、目を覚ましていなさい。」33節

 受難節の間に、特に私たちが気をつけなければならないことは何かと考えるときに、今朝のテキストはずばり「目を覚ましていなさい」です。 自分なりには目を覚まして生きていると自負できる私たちですが、もう一歩進んでもう一歩深めてこのことを考えてみましょう。「気をつける」とはぼーっとしていないで、という意味を込めていると思います。

 少し長いですが、以下の文章はFacebook(篠崎 朗さん)で紹介されていたものの短縮です。気をつけるべきことは何かを理解するのに参考になるでしょう。

「ある小学校でクラス造りに一生懸命な先生が五年生の担任になった時 一人、服装が不潔でだらしなく、遅刻をしたり、居眠りをしたり、先生はどうしても好きになれない少年がいて毛嫌いするようになった。中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入していた。
 ある時、少年の一年生からの記録が目に留まった。「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来楽しみ」とある。
 二年生になると「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。
 三年生では「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りをする」。三年生の後半の記録には「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、四年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」。
先生の胸に激しい痛みが走った。だめと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いている生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。
 先生の目が開かれた。放課後、先生は少年に声をかけ「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?わからないところは教えてあげるから。少年は初めて笑顔を見せた。それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手をあげた時、先生は喜んだ。少年は自信を持ち始めていた。
 六年生で先生は少年の担任ではなかったが、卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。「先生は僕のお母さんのようです。そして、今まで出会った中で一番素晴らしい先生でした」
それから六年。またカードが届いた。「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金ももらって医学部に進学する事ができます」
 十年を経て、またカードがきた。そこには先生と出会えた事への感謝と、感謝と痛みが分かる医者になれると記され、こう締めくくられていた。
「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、五年生のときに担任して下さった先生です。」
 そして一年。届いたカードは結婚式の招待状だった。「母親の席に座ってください」と一行、書き添えられていた。先生は嬉しくて涙が止まらなかった」

 この先生が嫌いな少年に目を止めなかったらここまでの関係は取れなかったでしょう。「気をつけて、目を覚ます」とは愛の目で人を見ることです。日常生活で聖書のことばを自分なりに実践する私たちでありたいものです。