「婚宴のたとえ」 マタイ22:1~14

「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」14節

 本日のテキストはかなり恐ろしい記述です。
 王は王子の結婚を祝う婚宴に招待状をあらかじめ送っていたが、いざその日になると、招かれた者たちは、仕事があるからと言って招きを断ります。

 再び王は使者を送るが今度は招かれていたものは使者を殺してしまう。これに怒った王は彼らを皆殺しにして、通りを歩く者たちをだれでも招待する。
 しかし、その中に礼服を着ないで出席した者をひどい目に合わせてしまう、というお話です。

 これは頑ななユダヤ人のあり様、律法には通じていて、また神の子が送られて来ることを知っていながら、実際に来たイエス・キリストを受け入れなかったことがベースになっているという解釈もあります。礼服とはイエス・キリストのことで、

「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている。」(ガラテヤ第3章27節)を想起させられます。

 とにかくこのテキストは何を伝えたかったのか。というと、これだけきついたとえ話を語らなくては頑迷な者たちには神の招きについて考えることをしないので、とも言えましょう。
 難しい聖書の箇所は「愛によって再解釈」をと常々申し上げています。

 神をこのような自分の要求に応じないものは滅ぼしてしまう存在と考えると
 「裁きの神」という像が私たちの中に出来上がってしまいます。誰しもが過去に「ああすればよかった」と後悔することは一つ、二つはあります。そのとき、神を思い出すと、お仕置きする怖い存在が浮き上がってきます。

 本日のテキストのおしまいは「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」です。

 テキスト全体は王からの招きと読む代わりに、「愛の招き」ととらえると、愛でないものに心を奪われてしまう状態は私たちの存在そのものが無になってしまう。
だからこそ「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」は「選ばれる者」となるには自分はその訓練ができているか、と自己吟味を丁寧にする必要があるのでないでしょうか。みなさまはどう理解されますか?