「子供のように」マルコ10:13~16

 「子供(おさなご)のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」15節

( はじめに目を瞑ってご自分の幼かったころに思いを馳せてみましょう。)

 日本のように戦火の下で逃げ惑う状況でないところでは、「子供の日おめでとう」といえます。しかし、世界のあちらこちらで、数えきれないほどの大勢の無辜な子供たちが家を焼かれ、無残に殺され、親とはなれ、懸命に生きなければならない時代はあったでしょうか?

 一方戦禍ではなくても、日本では小中高生の自死が514人と報道されたのは昨年。その一つひとつには引き金になった事件はあったとしても、1歳半まで無条件の父母の愛を受けられなかった子は虚無感に襲われると専門家は言います。 (けれども長じてその虚しさはたったひとりの自分を受け容れてくれる人との出会いで克服されることも実証されています)

 また、子供が純粋である、と言い切れないこともあること、実際4歳児は口も達者で親がタジタジになることもあります。虫や小動物を無残に殺すこともします。

 一方「子供のように」というこの言葉が宗教に悪用されることも警戒せねばなりません。信仰のドグマにはしばしば、客観性が欠けていたり、知的説得力に欠けていることがあって、「疑ったり、調べたり、深く考えたりしないで、盲目的に信じる者が救われる」と説かれたりします。

 では「子供のように」はどの部分をとりあげて語るのがよいのでしょうか?

 そもそも「神の国」は死んでから行くところ、修行しないと行けないとか固定された場所ではないことを思い出しましょう。「神(愛)の国は、いま、ここでのこころの安定の場」と考えると「子供(おさな子)のように、親に信頼するごとく、愛の神に信頼し、全てを委ねて生きて行って良いのだ、との祝福のことばではないでしょうか。みなさまはどう思われますか?