「 悲しみの向こうに 」 マタイ5:15~16

「神の御心に適(かな)った悲しみは、取り消されることのない救いに通じます。」10節

 新約聖書には福音書、使徒言行録のあとに手紙が続きますが、かなりの部分はパウロからの書簡が多くを占めています。

この個所はパウロとコリントの教会の人々とのやり取りが記されています。 パウロの手紙によって、いろいろな誤解が解けて、コリント教会の信徒たちは自分たちが犯した過ちを悲しみ、悔い改めました。パウロは彼らの悔い改めに導かれた悲しみを、「神の御心に適った悲しみ」であると言っています。

 悲しみについては、以下の聖句もよく知られています。
「悲しんでいる人たちは幸いなり その人たちは 慰められる」 マタイ5:4

 聖書にはパラドックス(逆説)に満ちた文章がときどき出てきます。ご利益宗教ではない故です。
 ただ、私たちの生活の中で、「神の御心に適(かな)った悲しみ」と言い切れるものはほとんど無いと言えましょう。

 悲しみは悲しみです。むしろ、この悲しみにどんな意味があるのか、との問があるのが普通ではないでしょうか。

 私は10歳の時に大好きな父親を突然の病気で亡くしました。晴天の霹靂とはこのことか。その衝撃は大きかった。ただ30歳の若さで10歳の私と下の弟たち7歳、4歳の子供を抱えて、戦後の日本で生きていかねばならなかった母のことを思い、自分のことよりその方に気が行っていました。
 でも、ある年齢になったときに、もし父が37歳という若さで亡くならなかったら、と仮定して、他の人生を想像してみても、意味のないことと分かりました。

 悲しみは当座は悲しみのままでも、その後の人生の中で、深い摂理に気づかされた時、「大いなる慰めによって」救いに至る、と言い換えることができるのではないでしょうか。無条件の神の愛を受け容れたとき。みなさまはどうお考えでしょうか?