「 不思議なこと 」 マルコ11:20~25

「 祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。 そうすれば、そのとおりになる。」24節

 今日、当教会の創立(合同合併教会としての歩み)から9周年を迎えました。 本日のテキストはイエスが空腹を覚えて、近寄ったいちじくの木が季節ではないので、当たり前に実がなっていないのに、その木を呪った。そののち、しばらくたって、いちじくの木が根元かから枯れていたと、弟子が伝えた、という不思議な箇所です。そこからいきなり「神を信じなさい」と続きます。 実はなんとでも解釈できるこのテキスト。 どうであれ、イエスを知り、彼の言いたいことはこの24節だったということを受け容れるとその不思議さは読む人によってなんとでも解釈できるでしょう。 実は3日ほど前に吉高叶さん(バプテスト連盟の牧師で日本キリスト教協議会議長)がご自身のFacebookにアップした以下の文章を紹介します。(紙面上中略します。全文を読みたい方はお知らせください)

 「私たち人間が罪深い存在であることを否定することはしません。確かに、それに苦しみながら生きて行きます。 でも、「人間には生まれながらにして持って生まれた(DNAのような)罪があり、それはアダムに起因する『原罪』であり、それが贖われるためには、天来のキリストの贖いによるしかない。しかも、その原罪を贖うためには、神の子の血の贖いによる身代わりの死が必要である」という原罪論に根差した「贖罪論」を、ぼくはもう、まともに受け止めることはできません。(中略)そもそも変なことなのに、何か宗教的な「秘義」がそこにあるかのようなパラダイムを形成し、その中で思考や論理を組み立てていく「ドグマ」に縛られていくキリスト教は、もう結構です。 また、人間の罪の深みの「洞察」を披露して、キリスト教教理の妥当性を説明しようとする営みも、もう結構です。 教理のための人間利用です。 そのような教理の正当性のために腐心する人たちが、現実の世界に背を向け、人間の抑圧や差別の問題を「社会問題」などと呼んで、「それよりも大切なことがある」と二の次にしている様子を、ぼくは40年間見てきました。 (中略)
 「贖罪論」などがあるから、観念の世界に逃げ込むのです。「観念上の罪と観念上の赦し」の世界にアクセスして、現実世界を何も切り拓こうとしないのです。 そういう宗教は、もう結構です。 それより、生きている(いく)からこそ、この世の不条理に苦しめられ、また自分の弱さや罪性に苦しんでいる人間に、「大丈夫。あなたは、ただ、ただ神に愛されているし、赦されてもいるのです。だから大切に生きて行こう。あなたは一人じゃない。」と宣言していくことの方が、イエスの言葉と業に近いと思います。 ドグマは要りません。 出会いの中で、互いにイエスを感じ、共に生きようとする歩みを求めていきたいです。」 最も必要なことを簡潔に語っておられます。時が来ている、と感じました。不思議なことは日常にもあり、自分の感性で何を取り入れ、何を捨てるべきか選択しつつ、歩みましょう。