「 知ることと信じること 」 ヨハネ14:1~12
「 わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」12節
聖書を読めば読むほど、そしてこちら心の成長がそれなりの進歩を遂げていくと、今までよりイエスを深く理解できるようになって行きます。
イエスが自分を崇められる対象になることを避けている記載の代表的なところの一つはここでありましょう。
信じる者はイエスを知ることだけで留まるのでなく、イエスのなさる業(人を愛し、癒し、権力を振り回すものに対抗する)をするようになります。しかもイエスを超えたやりかたで。
今の時代、人の営みは、イエスの時代の彼の業の何倍もの働きを成し遂げています。 パスカルは「理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある」とパンセで言っています。理性だけで人は成長するのではなく、それを超えたものに出会ってはじめて理性をもって生きることは何なのかを会得するのでしょう。
当教会の岩越美恵さん(神戸常盤大教授)がご自分の勤めている大学で企画した講演会のことが先日神戸新聞で紹介されました。
デンマークに留学した人の経験を学生たちに聞かせ、インクルーシブ(包括)教育について学ぶ機会となりました。障がい者が健常者に一方的にお世話になるのではなく、価値観の逆転を試みて実践することが可能であるという希望を持たせてくれる講演会だったようです。 V.フランクルのNHKの第三回目の放映タイトルは「豊かさの中の『空虚』でした」その中で人生の意味を持つことができるのは一種のコペルニクス的転換が必要であることが語られていました。まさしく上記のインクルーシブ教育はそこに立っています。また個人の生活も幸せになるには自己にのみ焦点を合わせる生き方ではなく、外に向かって立つ態度が必ず必要なのです。
信仰生活もまず「知ること」からはじまり、いつか愛の神を「信じ」られるようになる時が来る。そこから何かを実行することは自分の生活圏の中で実践していけるものであることを忘れないでいたいものです。