「 気づきの人生 」 使徒言行録17:22~27
「すべての人に命と息と、すべてのものを与えて下さるのは、この神です。」 25b
時代は変わっているけれども、本質的には変わっていない人間の営みがこの使徒言行録の箇所ではないでしょうか。
いつ読んでもこの箇所は、2000年もの前のことではなく、現在の都市の繁華街いや、此処そこで起きている情景ではないかと思えます。情報はあふれているけれど、人々は絶えず珍しい話を求めてさ迷っている。
パウロはここで「知られざる神」という看板に注目し、イエスが伝えた本物の神について語ります。
しかし、2000年経ったいま、たとえイエス・キリストの示す神の名を知り、崇めることをしても、神の国がどこにあるかを自分で体得しないかぎり、結局、違った面で偶像礼拝、依存症の宗教に貶(おとし)めているのではないでしょうか。
まことの自分との和解ができていないままでは、神との和解はあり得ず、すぐ近く、いや私たちの心に居ましたもう神をわざわざ遠ざけてしまっているのではないか。
先週の木曜日にNHK総合で、「新瞑想のトリセツ」という番組がありました。著名な瞑想の達人2名の名前ものっていて、期待しましたが少しオチャラケで期待はずれの気持ちになりました。それでも感動を受けたという人も私の周りにいて、再放送を望んでいました。真面目に取り上げると都合が悪いとおもうメディアの操作なのでしょうか。
けれでも、今の世のなかでは「気づき」を高めるためにはマインドフルネス瞑想や静坐を日々の生活に取り入れる必要があることは確かなようです。
なぜならば、日常生活では頭の中は、騒音にまみれ、思考に振り回されています。故に、じっくりと自分とは何かの「気づき」に至るにはこのような呼吸法を伴った方法をとりいれ、推進してみるのも一つの方法でしょう。カトリックはそれを実行しています。
「民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。」