「なりたい自分」 ルカ17:20~23

「実に、神の国はあなた方の間(ただ中に)あるのだ」21節

 口語訳は「ただ中」原語からは心の中。
 神の国という抽象的な表現ですが、人として一番知りたいものであること、イエスをとりまくファリサイ派の人々は聞きたかったのです。神の国とは自分が求める最高の場と考えると、別の言い方をするとなりたい自分と繋がっているでしょう。

 人は誰でも○〇になりたい、と思っている存在です。
 それは若い人のことで年齢を重ねた人はそうおもわない、という人がいますが、「年を取ってこれからどうなるのか、どんな死に方をするのか」と考えているのも、「こうなりたい」と求めている自分ではないでしょうか。
 ましてやまだ若くして病のため、この地上で生きる時間が少ない人は、限られた時間の中で「どうなりたいのか」、自分の時間の過ごし方を必死に追い求めているのかも知れません。
 ともあれ、究極の「なりたい自分」は次のニューヨークのリハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩「病者の祈り」に現れているのではないでしょうか。

  「大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、
  慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
  より偉大なことができるように健康を求めたのに、
  より良きことができるようにと病弱を与えられた。
  幸せになろうとして富を求めたのに、
  神の前にひざまずくようにと弱さを授かった(中略)
  求めたものは一つとして与えられなかったが、 願いはすべて聞きとどけられた。
  神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて
  かなえられた私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ」

 また先日NHKのこころの時代で放映された「名も知れぬ死者を悼むために」 西崎雅夫さん(64歳)の生涯をかけた関東大地震の直後に荒川土手(そこで彼は少年時代何も知らずに遊んでいた)で虐殺された名もなき朝鮮人を悼む仕事を続けておられる姿、あの方は「なりたい自分」ではなく、知った以上黙認して生きられないという何かの力に動かされて今あります。生涯をかけておられるのは結局「なりたい自分」を歩んでおられるのでしょう。「私は真になりたい自分を生きているのか」時々、自問する私たちでありたいものです。