「 人生を変えるもの 」宗教改革記念日 ルカ19:1~10
「人の子は失われたものを捜して救うために来たのである」10節
徴税人は同胞から集めた税をローマに届けていました。蔑視されていました。その一人ザアカイの名前の意味は「義人」「きよい人」です。徴税人の彼は会いたい人、イエスに向います。群衆に囲まれているイエスは見えません。背が低いのでイチジク桑の木に登ります。金はあっても同胞から疎まれ、自分も生きる意味を失っている彼はイエスに会いたいと必死の思いでした。
このことを知ったイエスはご自分から彼の家にいくことを告げます。そして彼の応答。 福音書でもルカしか書いていないこの記事は切に求めている者、それもこの世的には財はあってもこころが傷ついている者に近づくイエスとのやりとりが描かれています。
今日は31日の宗教改革記念日のことも覚えたいと思います。 ただし 1517年のルターの改革だけを覚えるのではなく、今、宗教(こころの問題)で改革されることとはなにかを考えてみたいと思います。
昨日テレビでオウム真理教事件のサリン製作の現場を押さえた過程のドキュメンタリーを観ました。取調室で繰り広げられた、異例ですが検察を交えず、化学者同士の心理戦。科捜研の男たちが、凶悪な化学テロのサリン作成の解明に挑み、犯人を追い詰めて行く頭脳と勇気の物語です。科捜研の服藤さんと土谷氏のしのぎを削る6時間にわたる対峙。長い沈黙の中でこの服藤さんが言葉ではなく、白い紙にサリンにいたるまでの高度な化学式を書いて行くうちに土谷氏の体が闇の中で反応する。緊張の極みでした。国の転覆まで考えたサリンの製造。優秀な科学者の間違った方向に向かったエネルギーを止める者はいなかったのか、という無念さが残りました。愛と高い倫理をたもつ宗教以外はこのような異常な集団となる危うさを抱えているのです。
イエスはザアカイの切に求めるエネルギーを感知して近づきました。あらかじめ、ザアカイについての情報を得ていたとは思えません。 人がどんな人生を歩むかは、誰に出会うかで決まります。ザアカイは、自分のこころが満たされていないことに気づいたからこそ、イエスとの出会いを実現させました。宗教改革は過去のものではなく、今、ここでの人生において、まず自分の心身のありようをどう改革するのかから始まります。
「毎日が宗教改革の日である」はカール・ヤスパースの言葉です。