「 海のように深い痛手 」哀歌2:13

「海のように深い痛手を負ったあなたを誰が癒せよう」13節

 はじめに哀歌についての説明をします。ユダヤ教徒やキリスト教徒が、重要な宗教的建造物の破壊を忘れないために、一年のうち特別な時期に読む本です。全体ではなく一部を歌ったりします。でも現在特にプロテスタントの教会ではこの哀歌を説教のテキストにすることは稀なようです。

 哀歌全体はユダ王国の滅亡やエルサレムの破壊を反映しており、神の審判がテーマとなっています。これにより、エルサレムの人々の心の痛みが明らかにされています。けれども、悲しみの中でも、希望を見つけることができるというメッセージが込められており、多くの人々にとって慰めとなっています。

今日はあえて「海のように深い痛手」という句に注目します。 海を人間の心のシンボルとして考えます。神が人間の深い心の淵に入ることを象徴しています。なので希望も語られているのです。
 海を「人間性が持つ神秘のシンボル」と考えたのは6世紀の教皇グレゴリウスでした。  精神科医の名越康文さんが空海に魅了されたという番組がありました。 三句法(①菩薩心 ?大悲 ③方便)についての説明、そして怒りは寂しさから来るということも話されました。分かりやすく整理されたお話でした。つまり、私たちは日々気づきを持って、生きることが大切だということです。

 9月25日に帰天したTNさんの死へ向かう日々の中の気づきは素晴らしいものでした。死を前にして、いままでの人生に対する態度と真逆の違った余命3か月でした。キリスト教の環境の中で育ってもそのエッセンスよりも悲しい面を見ていたからでしょう。 キリスト教の関係の人びとから反面教師を学び、しかし、神の無条件の愛は、この最後の日々の中で知ることになりました。お見舞いに来るわが子、親戚、友人たちとの出会いがどんなに尊いものか。

 こんなに嬉しいことがあるなら「いっぺん死んでも良いかなっ」て言いました。咽頭癌でしたので全摘手術で声帯もなくし、カニューレが外れ危機から戻ったときは「神はオルンチャウカ?」とも。 深い海のような痛手の中で、いやそこでこそ、神の愛に触れた死の前の日々でした。妹さんの看取りの中で静かに安らかに帰天されました。享年49歳でした。