「 思い出 」 マタイ13:51~52
「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す」51節~52節
昨週は永眠者記念礼拝で、各々、家族その他の親しい人を天に送った方々を偲びました。同時に死と生とを考える日でした。
メッセージは27年前にお連れ合いを亡くされたKMさんの証でした。先週の週報の裏面に要約が載っています。
私たちが先に天に召された身内の遺品を整理すると、そのものを通して思い出が湧いてきて断捨離をしているはずが先に進まず、すっかりどっぷり思い出に浸ってしまっていることもあります。
本日の聖書のテキストは倉から古いものと新しいものを取り出すのが賢い学者だと書いています。イエスは多くの分かりやすいたとえ話をした後に、「これらのことがみな分かったか?」ときかれました。
学者とは謂わゆる学位を取った人ではなく、学びを続けている人は皆、学ぶ者と定義したいと思います。
倉から取り出す作業は、何が古くて何が新しいかそれを見極めなさいと言われていそうですが、この作業そのものが、私たちの思いと深くかかわっています。 憎しみ、うらみ、つらみを抱いて作業するか、愛を持って分別するか。
思い出は感情と強く結びついています。記憶は必ずしも感情を伴うものではありません。 思い出はできるかぎり、今生きている自分に優しく語りかけるものであればと思います。 ひょっとして、ただの記憶、いや悩ましい記憶も新しい思い出に変わるのは取り出す者の、意識に寄っているのではないでしょうか。
古い物とは今の自分を縛るものでしょう。新しいものとは今の自分を生かすもの、あなたはそのままで良いよ、とまず自分が自分を認めること。信仰とは決断に他ありません。 迷っているときにこそ、どちらを選ぶか祈りつつ、これは愛か、愛でないかを考えて行動に移る。「思い出」をも今を生かすものに変えることができるわたしたちではないでしょうか。みなさまはどう思われますか。