「わたしの信仰について」 マタイ25:40 AM《証》
『よく言っておくが、わたしの兄弟姉妹であるこの最も小さい者たちのひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』
私にとって信仰するのは幸せになるためです。信仰は生きるための指針であり、神に導かれ救われて幸せになります。苦行を耐えることが信仰であるとは思いません。また、信仰は信仰により幸せになった本人はもとより、その人が幸せになることで周りの人をも幸せになるのが真の信仰だと思います。人生において楽しいことより苦しい事の方が多いのかもしれません。この苦しさとどのように向き合っていくのかを示唆してくれるのが宗教であると思います。
この世で心から愛する人に出会うことは奇跡といえるかもしれません。それゆえ、愛する人を失うことの苦しさは耐え難いものです。そこで、愛する人を失うことの苦しさを少しでも和らげ、どう乗り越えるのかが信仰の力であります。愛する人は信仰により、美しい思い出と共に永遠に生き続けます。また、人生において心の安寧こそが大切です。それは日々の些細な事から積みあがります。すべてに感謝する。いつも笑っていることが大切です。物事の捉え方はその人の気持ちの問題です。同じ事象でも捉え方ひとつで180度変わります。自分を取り巻く環境、人間関係こそが最も大切な要素だと思います。人が変われば全く違ったものになります。
しかし、人の言動は一貫性がなく移ろいやすいものです。当然完璧ではありません。そして、人で解決できないことがたくさんあります。その時こそ神様の出番です。神様が指し示し、後押しすることでやっとまともになれる。まさに神様は私たちの後見人であり、神の大いなる力によってはじめて一人前になることができます。 また、生きとし生けるものは全て死を迎えます。人は死んだらどうなるのか、それは誰も見たことがないのでわかりません。この世に残された者が、都合のいいように解釈すればいいのではないのでしょうか。荒唐無稽であってもそれを全否定できないのであれば、そう信じることは生きる上での糧であり知恵であり、それが救いに繋がるのです。それを信じえる根拠は、人知を超えた「大いなる力」であり、それが「神の愛」であり信仰の意味であると思います。
中国四書五経の一つ『礼記』に愛してその悪を知り、憎みてその善を知る。 本当に愛することは相手の短所と向き合うことであり、たとえ誰かを憎むことがあってもその長所に目を長所に目を閉ざすことがあってはならないということです。 人間関係において人を嫌うことはあっても、人を憎んではいけない。なぜなら、憎むことは自分に跳ね返ってくるからです。赦しは相手のためではなく、自分のために行うものです。罪は悔い改めることにより、神によって許されます。人生において一度も過ちを犯したことのない人はいないと思います。人は赦し許されて生きて行きます。いつまでも許されず、いつまでも許せない人生は不幸です。すべての人は神の大いなる力の支えにより幸せに生きる権利があると思います。