「 弟子になる 」マタイ4:1~25

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」19節

 「弟子」という言葉は、ギリシャ語で mathetesと書かれます。この言葉は、弟子、学徒、または学ぶ者を意味します。
 イエスの時代、つまり紀元1世紀のユダヤ地方では、漁師は社会の一部として暮らしていましたが、その生活は厳しいものでした。漁師は主に地元の市場で魚を売ることで生計を立てていましたが、収入は不安定でした。また、彼らは税金や貢物の支払い義務があり、地元の支配者や宗教指導者からの圧力も受けていました。
 
 その彼らが、イエスの呼びかけに何もかにも捨てて応じたということは驚きです。
 それだけ、イエスに魅了されて従ったのでしょう。ただ、弟子となった人たちにイエスは
 「わたしを師と呼ぶな」「私はあなたの友である」ともいわれ、いわゆる弟子制度を固く守ったのではありませんでした。

 現代のイエス・キリストの弟子は、戦争に反対、何が人間、そしてこの地球のために良きことなのかを考え行動する人でしょう。

 神の愛、愛こそが一番の人間の究極的関心事であることを伝え死んで逝ったのがイエスだからです。

 イエスの弟子になることは狭い思想の枠の中に押し込められるのではなく 自分をとおして、神の意志を問いつつ、イエスの考えならこういうことでなかろうか、と行動する者でしょう。

 昔、長谷川テルという女性がいました。「熱い血を誤って流さないでください。皆さんの敵は海を隔てたこの地にはいないのです。お元気でどうか生き抜いてください」 1938年から41年にかけ、中国の戦場で、若い日本人女性の声が繰り返し響き渡った。37年に始まった日中戦争を「軍事ファシストが自分たちの利益のために起こした侵略戦争」と喝破し、ラジオ放送で日本兵に戦闘停止を呼びかけた。34歳で病死。

 クリスチャンではないとか、あるということは第一の問題ではありません。彼女のようにいのちの尊さを知って、体制に飲み込まれず生命をかけて若い兵士たちに呼びかけた行動は、この人こそイエスの弟子なのです。私たちもいざというときに「イエスの弟子」らしく行動したいものです。