「 静まってこそ 」 詩編46篇9節~12節

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」11節 口語訳
「力を捨てよ、知れ わたしは神。」 新共同訳より

どちらかと言うと、はじめの口語訳の方がしっくりきます。静坐、座禅、マインドフルネス瞑想などを日常的にしている方はこの意味が少しは理解できるかも知れません。
 心を静めていると、はじめは過去のこと、これから起きること、心配事に心がざわつきますがそれを通り越すと「今、ここ」に居ることができるようになります。
 
 この聖句は静まらないと神を知ることができないとズバリ本質的なことをわたしたちに伝えてくれています。
 先日、めったに見ないTVドラマを見ました。山田洋次(脚本)×石井ふく子(プロデューサー) の特別企画という宣伝に魅かれて見た『わが家は楽し』です。

 夫婦とは何か、家族とは何か??。今の家族を、夫婦の絆を笑いと涙と哀愁をもって描くものでした。

 夫の退職金をあてにしてこれからの人生を友人とブックカフェーを運営したいという話をする妻。しかし、とんでもないと即座に断わられる。積年の不満の結果として妻は離婚を考え、離婚届を夫につきつける。ぎくしゃっくする家族。すったもんだのさ中で夫が行きつけの居酒屋からの帰りに道で倒れる。 救急車で運ばれた病院では冷たいベッドに寝かされ、看護師も冷たい応対。

 企業で定年まで一生けんめい働き、妻の気持ちを汲み取ろうともしなかった夫。この時、そのような中で、思いがけなく、彼は静かに今までのことを振り返ることができた。外で倒れたことによって家でではなく病院で気持ちを静める経験をする。

  この場合、聖書の「神を知る」は彼にとり、自分と妻との関係の反省だったでしょう。
  「神を知る」とはとりもなおさず「自分を知る」ことからはじまります。
 
 「神は愛である」の聖句から、「静まって『神』を知る」とは具体的には「愛」を知ること。あたりまえの日常生活がどんなに尊いことかを彼は病院で さとることになりました。自分を愛することは近い隣人を愛することなのです。そこから神を知ることに?がって行くのでしょう。