「 目指す目標 」フィリピ3:12~16

「いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう」16節

 フィリピの信徒にパウロが送った手紙です。獄中で書いています。イエスのことを語ることで捕らえられているにもかかわらず、喜びにあふれた手紙に なっています。

 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」12節

 自分の目標は何か。パウロは謙遜に努めています。

 どんな状態が捕らえられているのか。少なくとも皆さまは今日花見に行かずこちらに来たからキリストに捕らえられているのでしょう(笑)

 ある人は聖霊はなんとなくわかっても「神」は分からないと言っています。 ミャンマーの人々のことを考えたら、神がいるのならどうしてあのように酷いままにして置くのかと。疑問を持ちます。
 「神は死んだ」とニーチェは言いましたが、人間を人形のように操る神は死んでもらわねばなりません。 神は私たちの考えの範疇を超えています。

 人は自分と神とのことを整理しておく必要があります。 そして「到達したところに基づいて」前に進むのです。 他の人と比べることなく。ボヤーっとしないで、日々の営みで、目に見えることだけで判断するのではなく、魂のレベルでのことです。「真理はあなたがたを自由にする」ヨハネ8:32

 隣の国の尹錫悦(ユンソヨル)大統領の罷免は、約40年間の民主化、それも多くの人命を失くして到達したものを潰すな、という思いが勝利したものです。日本のメディアはキチンと伝えなかった(これからも?)ことに腹立たしさを感じています。

 イエスの受難の時、どこまで自分は神(イエス・キリスト)に捕らえられて目標を目指して歩んでいるのか自問しつつ、過ごしたいものです。