「 確固たる土台 」エフェソ2:14~22

「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」22節

 本日、5月18日は1980年の光州事件を思い出す日です。独裁時代の末期でした。罪もない学生、市民がたくさん殺されました。
 ひやっとした昨年12月3日の大統領による非常戒厳の暴挙。危ういところでしたが、民主主義を守る人たちによって危機は免れたと喜んでよいでしょう。

 本日の聖書はイエス・キリストが「敵意という隔ての壁」を取り壊し、異邦人とユダヤ人を一つにしたことが語られています。キリストの十字架によって、律法の規則や戒律を超えて、すべての人が神と和解し、神の家族として迎え入れられることが強調されています。

 また、キリストは「平和そのもの」であり、遠く離れていた者にも近くにいた者にも福音を伝え、すべての人が神に近づく道を開かれました。この結果、信じる者はもはや「外国人」や「寄留者」ではなく、神の民として、霊によって築かれる神の住まいとなると語っています。

 悲惨な戦争が止まない世界ですが、一人ひとりが聖霊によって築かれる神の神殿であるとの自覚をもって生活することが私たちにできる戦争反対の行為ではないでしょうか?

 先日、日本臨床宗教師会によるインターフェイス(信仰)の研究会(zoomで)があり、浄土宗と融通念仏宗についての学びがありました。その中で浄土のとらえ方の違いを知らされました。つまりシャバには浄土なし、と浄土宗の研究者は言い、融通念仏宗の僧侶で研究者は微妙にちがっていました。フロアからの禅宗のお坊さん、東日本大震災の被害者さんたちと深くかかわってこられた人は、浄土はこの世にあると考えている、と発言され、私は「そう、そう」とうなずき、イエスが、ルカによる福音書 17章20‐21節 で神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。神の国はあなたがたのただ中にあるのだ」と語られたことを思い出していました。
Ⅰコリントの信徒への手紙3章16節に「あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と問いかけています。自分の尊さを認めないでどうして他者を尊く思い接することができましょうか。日常の営みの中でこの言葉の重みを忘れないでいたいものです。