「 主の祈り (そのⅠ) 」マタイ5:9

「天にましますわれらの神よ」

①  「天に・・・・」・ とは単に空や宇宙の果てを指すのではなく、神が超越的な存在であることを示しています。ですからこのシャバの世界も含まれています。神の領域(バシレイア―)は限定されず、あらゆる場所が天 であるからです。

 ルカの17章の21節以下の問答ではイエスは「神の国はあなた方のただなかにある」と言っています。「今、ここに」生きるところに神がいますという感覚を持たなければどこにもいない方 nowhereそのままです。 でも、nowhereの間を開けるとnow hereとなり、どこにもいないのではなく「今、ここ」にいる存在と理解できるでしょう。

②  「まします・・・・」 英語の古語の祈りでは artが使われています。 is→art。 artという古語でよむと、神の存在の芸術性が語られているようです。

③ 「 われらの神よ。・・・・」 私の神とは言わず われらという共同体の神をたたえます。狭い共同体ではなく人類全体の神を年頭に置きたいです。

でも、ほんとうに横に居るひとの品定めをして差別をしないで、みんなの神と思えるのは難しいことです。口に出す以上、「われら」が誰々を意味しているのか。
父よ→イエスが「アバ (父さん)」と呼びかけたことから来ています。当時、神は畏れ多き存在であったため、親しく呼びかけられる存在の「父」と呼びました。

 しかし、今の時代、キリスト教が家父長制を保ってきたことを考えると、あえてこの呼びかけを使わないほうが神の超越的な存在を認めることになるでしょう。
 長きにわたって、今まで使われてきた祈りがマンネリになったままで、良いはずがありません。夫婦の間でも女性が夫を「主人」と呼んできたことを反省しない限り、家父長制を暗黙の内に認めたままになっているのと同じです。

 イエスが教えてくれた祈りに命を吹き込んでこころを込めて祈るように努力することはとても基本的で重要なことです。