「 主の祈り (その2) 」 マタイ5:9b
「御名が崇められますように」
推し=ファン の名前を何度も呼んでうっとりとすることがあります。
「崇める」とはこれ以上のことでしょう。
そもそも御名とは? 聖書に神の正統な名前は記されているのでしょうか。
神の性質を表現する様々な名前。旧約聖書にはいろいろな呼称が使われ、神
の多面的な姿をそれぞれ強調しています。「ヤハウェ」「アドナイ」(=主)や
「ハシェム」「エロヒム」「エル・シャダイ」など。
キリスト教は旧約聖書(ユダヤ教聖典)の伝統を受け継いでおり、基本的に
は同じ神を信じています。しかし、以下のような点で呼称や理解に独自性が見
られます:主、LORD や神=God です。
旧約にもどりますと、出エジプト記には3:14、エジプトで虐げられてい
るイスラエルの同胞を救いに行け、と命じられたときに、モーセは「あなたの
名前は?」と尋ねます。
神は「私はある」と答えました。原語では「エヘシェ アッシェール エヘ
シェ」で決して「ある」という現在形ではありません。ずーと未来完了形が続
きます。ですから、本当の名前は無いと言ってよいでしょう。
崇められることはその表現のできないない神の名前(性質)にひれ伏すという
ことになりましょう。
河合隼雄がユングのことを紹介しています。とても示唆に富んでいます。
それはユングが東アフリカのエルゴン山中の住民のところに滞在していた時の
経験です。住民が日の出の際の太陽を崇拝するのを知り、「太陽は神様なの
か」と質問。住民たちは全く馬鹿げた質問としてそれを打ち消します。「太陽
が昇るとき、それが神さまだ」
ユングは「私は、人間の魂には始原のときから光への憧憬があり、原初の暗
闇から脱出しようという抑え難い衝動があったのだということを、理解し
た。・・・・・朝の太陽の生誕は、圧倒的な意味深い体験として、黒人たちの
心を打つ。光の来る瞬間が神である。その瞬間が救いを、解放をもたらす。そ
れは瞬間の原体験であって、太陽が神だと言ってしまうと、その原体験は失な
われ、忘れられてしまう」(「昔話の深層」―河合隼男)35頁より
神さまはどのような方なのか、イエス・キリストはどのような方なのか、自
分はどんな存在なのかを問う時に、参考になる話だと思います。
今関係のある人たち(家族を含め、日常的に会っている人たち)の間で起き
ることのなかに聖霊の働きをみないでいたらイエス・キリストが来て去ってい
かれた意味を理解していないことになるでしょう。