「 主の祈り5 」 マタイ6:12

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しましたように。」

《われらに罪をおかすものを われらが 許すごとく われらの罪をも
赦したまえ》のところです。

 《われらに罪をおかすものを われらが 許すごとく われらの罪をも
赦したまえ》のところです。

 私たちの負い目(罪)負債は、ギリシャ語 opheilemata はもともとこの
語は「負債」「借金」を意味し、文字通りには「私たちの負債をお赦しくださ
い」となります。ここでの「負債」は、単なる経済的な借金ではなく、
神に対する道徳的・霊的な負い目、つまり「罪」を象徴的に表しています。
ギリシャ語では「罪」を表すのに複数の語があり、文脈によってhamartia や
paraptoma なども使われますが、「主の祈り」ではあえて「負債」という比喩
的な表現が選ばれているのが興味深いです。

 人生で一度ではなく2度もどうしてこんなことが・・・・・という裏切りに会
いました。でもそれは今わたくしの大切な経験、財産になっているようです。
サイコパス的な人にであった時、専門家のある本を読みました。
結論はそれでも、サイコパスの人の存在でこの世は停滞しないで、うごいてい
ると。

 聖書の中に 「愛する者たちよ。自分で復讐してはいけません。むしろ神の怒り
に任せなさい。『復讐はわたしのすることである。わたしが報復する』と主は言わ
れるからです」ローマ12:19  とあります。
でも、ただ自分の復讐を神がしてくれるではないですね。
緒形拳の主演の映画「復讐するは我にあり」もありましたね。
「私たちも赦しましたように」のところでは、欧米の教会ではこのところで皆
声が小さくなっているらしいです。日本ではどうでしょうか。

 赦してもらうことはお願いしても、こちらが赦しましたように、はなかなか
言えません。いや、できないものです。限りなく努力をしていくしかないでし
ょう。そうしたらいつか、自分の力ではなく、「ああ、そういうことだったの
か・・・・・」と思える日が来ます。

 人間関係はいわば、負い目を受けたり与えたりですが、横の関係だけではどう
しようもなくても縦の関係「天にまします神よ」と祈るとき、負の部分がいつ
の間にか正になっていくようです。みなさまのご経験ではいかがでしょうか?