「 種を播くとは? 」 マタイ13:18~23

「誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪いものが来て、心の中に撒かれたものを奪い取る。」19節

 今日の聖句を何故選んだのか。10周年記念誌のところにも書きましたが、
子どもの頃から教会学校に通い、聖句を聞く。教えてくれるのは大学生の青年
が教えてくれます。学校もそうですが、知らないことを教えてくれるところ。
しんどい事があっても、それは試練と教えられ素直に受け入れている自分でし
た。

 反抗するのはよくない。親を大事にしてと、今の私を知る人は信じられない
でしょうね。社会人になるからと素直に受けた受洗。見習いで働ける、資格も
取れるという保育所に就職しました。教会とつながる保育園。親も喜びまし
た。

 その保育の現場で、初めて知った被差別部落の事、衝撃でした。家庭訪問に
行きその生活状況を見て、差別の実態を目にしました。「イルム(名前)」の映
画を見た。在日の人の事も知った。沖縄の人の事も知った。地区の中に差別が
ごろごろ転がってた。自分はこの子どもたちにどんな未来を語れるのか。

 19歳から21歳のこの時期は激動の時でした。自分に身についていた聖句
が、何も力にならんかった。自分の信仰は挫折し、教会に行かなくなった。
 しかし夫が教会の補教師で就任。何で?仕方なく教会に戻ったけど神は分か
らん。「聖書入門」を改めて読んで、自分が確信もてるのは、屋台をひっくり
返したイエス。死ぬかも知れないけど、そうした行為をするイエスは信じられ
る。それだけは確信できると夫に言ったら「それが信仰や、あなたの信仰や
と。」   自分にまかれた種。 どんな種? 自分がまく種はどんな種。

 19歳から21歳までの激動の期間。世の中のこと知らんかった。当時通って
いた教会は世間の事を語らず、それを享受してた自分があり、知るとゆうこと
を知った自分が、どのように生きたらいいのかが自分の課題になりました。

 虐げられる人、差別を受けている人、そのような方々と共に生きる生き方を
したいと思っています。

 今日の聖書の個所の深い意味は、私にはわかりません。自分に撒かれた疑問
を持たない種は、現実社会の矛盾と戦う力が育っていませんでした。その後の
教会またそれ以外の方々との関係から、別の眼の種が自分の中で育ち今の私が
ある。時としては疑問を持たず素直になんでも受け止めてしまう自分もいる
が、疑問を持ちなんで?本当?イエスならどうする(信仰的に言えば)と考え
るそして行動する自分でいたいと思うのです。