「 待つこと 」 マルコ4:30~32

「神の国を何にたとえようか。からし種のようなものである」30節

 今日はアドベント(待降節) 第2週です。
 ヘブライ語聖書の「主を待ち望む者は新たな力を得る」(イザヤ40:31)を
思い出します。

 このからし種の譬えは、神の国のたとえで語られたもので、小さなからし種
が成長して、その枝に鳥が来るまでになるという、木が大きくなるだけでなく
思いがけない結果をもたらす、そのことが神の国を表すということです。

 「待つ」でおもいだすことは高校生の時に担任からすすめられて労演に入っ
て演劇の鑑賞をする機会が与えられました。その中でサミュエル・ベケット『ゴ
ドーを待ちながら』を見に行きました。

 登場人物は「来ない人物」を延々と待ち続けます。劇的な展開はなく、ただ
待つこと自体が物語の中心。観客は退屈や苛立ちを覚える一方で、「待つことそ
のものに意味があるのか」という問いを突きつけられます。

 ここでは、待つことは、意味の不在や不条理を体験させる行為でもあります。

 アドベントでは無意味に何かを待つのではなく、イエスの誕生を再体験する
準備の期間で、待つことの中でいただくものがあります。

 神の国は、からし種の成長にたとえられています。それを知って今、どんな
困難でもそれで終わるものではないことを信じられるのは幸いです。

 神学校で習った「実現された終末論」は英語では “realized eschatology
(リアライズドエスカトロジー) となります。
これは神学用語で、終末(eschaton)に関する出来事が未来ではなく、すで
に現在において実現しているとする考え方を指します。

 この地上に生きている以上、すでに といまだ の間に生きることですが、
「今、ここに」生きる、ある、ことを信じて生きると、それが実現された終末論
を生きることなのです。
信仰とは大いなるイマジネーションを持って生きることなのでしょう。