「『神は愛なり』に導かれて―証―」 Ⅰヨハネの手紙4:7~16

「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」Ⅰヨハネの手紙4:16 

2018年4月1日のイースター礼拝の日に受洗しました。受洗しようと思ったのは幼年、少年、青年期の生育歴を述べ、「西九条ハニル教会」は第二の故郷のような愛を感じ心が安らぐ場所になる自分の気持ちに率直に従うことを話しました。 

私は自分の愛憎の激しい性格を知っていますので正直自分が神を信じ他人のために祈るような人間になれるか自信が全く無かったのが当時の心境です。 

 実は受洗へと後押ししてくれたのは、この教会の皆さまと、今の仕事の障がい者の人たちだと確信しています。仕事は障がい者のグループホームの夜間の日常生活(夕食、入浴、衣服の着替え、洗濯、排泄、発作時の見守りなど)のお世話です。障がい者の方たちは各人が個性的で、ある人は一晩中うちわをあおぎながら独白をしています、ある人は全く言葉は話せませんが、就寝するまで鳥類の声をあげ、世話人の隙があれば、ポンズは飲む、マヨネーズは飲む、生肉もたべてしまう個性です。ほとんどの障がい者たちとは会話不能です。 

しかし、西九条ハニル教会に通う日々で、言葉がなく会話が不可能な事が何だ、とふと思ったのです。そして会話できる私は今までどれほど他人を傷つける言葉を発してきたのか・・・・・・。 

「はじめに言があった。言は神と共にあった・・・・」(ヨハネ1:1~5) 

これを私は神を愛に、命を神=愛に光を愛に暗闇を憎悪に置き換えて心で暗唱することがあります。西九条ハニル教会の看板に「神は愛なり」とあります。 

郵便局側からくるのではなく、浜田医院から入って、反対側からこの看板を見て、教会に入ります。 

 少なくとも私の知っている障がい者は作為的に他人を傷つけません。私は彼らと出会い自分が人間としてどれほど傲慢不遜な生き方をして来たのか、を教えてもらい自分の生き方に謙虚と感謝を取り戻すことが出来ました。彼らは大いなる愛=神の意志により護られ生かされている。彼らと同様にこの私も大いなる愛=神の意志に護られて生かされていることを実感する幸せな日があります。今年の3月に申牧師から執事になることを勧められました。そんなことはできないと思いましたが、短い期間の交わりでしたが、帰天されたTSさんやMTさんに教会で奉仕しなさいと言われているように感じてお引き受けするようになりました。讃美歌88番の「心に愛を豊かに満たし、日ごとのわざにつかわしたまえ」を詠って上記の職場の夜勤に向います。ありがとうございます。