「喜ぶ神」 ゼファニア書 3:16〜17

「主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」17b

ゼファニア書は、預言書の中でも最も知られることの少ない書。堕落した王マナセ、アモンとによって統治されたユダ王国。政治的には奴隷の状態。宗教的には堕落した退廃の時代。3つに分けられる。 ①審判のことば。ユダとエルされレムに対して ②エルサレムを含む様々な外国人のグループに対して神のおつげ ③遠い未来の希望を約束する言葉で締めくくられている。本日のテキストはこの③の部分。

神が喜ぶとは「なんと不遜なことよ!」と呟きたくなります。災害で苦しむ人の、生き場、生き甲斐を失っている人間の現実の中で、人間側からの声だとおもう。「神」ってどんな存在なのか? よくわからない。

では、人間が人間に期待しては裏切られたことから考えてみよう。米国の現代史からも学べます。マルチン ルーサー・キングの「私には夢がある」が1963年ワシントンで語られたのはもう56年前。

オバマ大統領の出現がキング牧師の夢の実現の一つの証かと思えた。ところがトランプになって、どう考えたらよいのか米国の心ある人はじめ世界が、戸惑った。歴史の歯車が戻ってしまったよう。全部が全部悪いとは言えないが。北朝鮮との対話は彼だからできたということも言える。

本日のことば、「主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」。 

神の審判は決して最終的なことばではないのです。なぜなら悪に対する神の怒りにもかかわらず、神の慈悲は最後には人にまことの勝利を与えます。その愛によって。その喜びを私たちも感じてみましょう。

ある地方の看護大学の実習生の経験。65才の独身の女性は末期癌で入院中。緩和ケアのある病院に移ることが決まっている。彼女はカーテンをきっちりと閉め、誰とも話さない。骨全体に転移しているので自由には動けない。ゆえに身の回りのことをしてあげたその学生。振り返りで、院内の指導ナースは「結局閉じこもりのこの人を散歩には連れて行かなかったのね」。大学からの指導教授もその学生も黙っていた。帰り道に話した。神の目を、耳を持とう。確実に来る死を前にして、「神との折り合い」をつけている人に、その人の希望に寄り添う。それ以上のものが必要か。神もこの配慮を喜ぶだろう。