「ガリラヤで会おう」

恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。(マタイ28:10)

復活されたイエスが、駆けつけてきた女性たちに告げた言葉です。失意の中に居た弟子たちにガリラヤで会うことを約束しました。

ガリラヤはエルサレムを中心として発達したユダヤ教にとっては辺縁でありました。ルカによる福音書ではマリアが天使ガブリエルに受胎告知を受けたところ。 イエスは生涯のほとんどをガリラヤで過ごし,ここで教え人々を導きました(マタ4:23~25)。山上の垂訓を与え(マタ5~7章),重い皮膚病にかかった人を癒し(マタ8:1~4),十二使徒を選び,遣わされました(マコ3:13~19)。ガリラヤ人でないのは,イスカリオテのユダだけであったようです。よみがえられたキリストは,ガリラヤで,使徒たちにその姿を現されました(マタ28:16~20)。

 これらのことから、普通、賑わいのある都会風の場所というより、辺境なところ、一般にはあまり注目されない、忘れられたところ、と認識する方が妥当かも知れません。そこで会おうというイエスの呼びかけ。

マルコ福音書では復活後はイエスが「違った姿」で現れたことを告げています(マルコ16:12~13)。(参考はトルストイの「靴屋のマルチン」)

私たちはどこで主に会うのでしょうか? 私たちのガリラヤはどこでしょうか? 抽象的に考えるのではなく、今、ここでのことを考えると、私たちが復活の主にお目にかかるのは、新型コロナウイルスによって様変わりした社会、世界ではないでしょうか。大胆に言うと世界自体がガリラヤになってしまったのです。

死をも克服されたイエス・キリストに倣って、私たちはできることをコツコツとして行きたいものです。それにしても、隣国韓国での、新型コロナウイルスとの闘いとそのさなかで行われた国会議員の選挙の結果は、驚きを禁じえません。今日は60年前の「四月革命」の日でもあります。「にもかかわらず」の物語は続いているとのよきサンプルかも知れません。イースターの喜びを感謝に、そして希望はなくならないことを、このガリラヤで感じ取って生きる私たちでありたいものです。