「見えないものを見る」(Ⅱコリント人への手紙4:17~18)

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」4:18

 礼拝をいつもと違う形で持つこと6週間がたちました。

本日のテキストには、17節「 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」とあります。

 では、聖書の時代の迫害の艱難から見て、今の新型コロナウイルスによる緊急事態は「一時の軽い艱難」と言えるでしょうか? そしてこれを通して重みのある永遠の栄光を見ることを許されるのでしょうか?

聖書の言葉は現代では的を得ていない気がすることもあります。ただ、19世紀のコレラや、14世紀のペスト、もっと前の人類が体験したウイルスとの闘いを考えるとき、一時(いっとき)という意味は長い歴史の一場面という解釈が妥当でしょう。

聖書は伝えています。「永遠に存続するもの」を見る目を人類は与えられている、と。その確信はイエス・キリストを救い主として信じる者の賜物でした。

星のお王子さま」(サン=テグジュペリ)という有名な本に、「かんじんなことは目に見えないんだよ」という 下りがあります。

 自分なりには正しくものを見ているつもりが、その基準が自分のエゴから見ていることもあり、何が本当に正しいのかを見極めることはできないように思えます。生産性にのみに重きを置いて、大切なことを見失っていることすら気づかない私たちです。 この一か月半のテンポを緩めた生活の中で、日ごろ見落としているものが周りにいっぱいあったと気づいた人が多いです。そこから、見えないけど確かに存在する大いなる存在(神)の愛に触れることができ、自ずと感謝の気持ちが湧いてきます。

ルカの福音書には神の国がどこにあるかとファリサイ派の質問にイエスは

「『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」17:21口語訳)と応えています。究極の見えないところにあるのです。  

コロナ禍の後に何がどうなるかは定かではありませんが、「コロナによる自粛のお陰でベネチアにはイルカが泳ぎ、中国は空気が綺麗になったと。この記事を読んだ時、私達人間は、神様から頂いたこの地球をこんなにも苦しめていたのかと、ショックを受けました。神様にいただいた全てのものに改めて感謝します。今は先が見えないけれど、全ては主の御心だと信じ、委ねて、期待します。」これは、ある人の信仰告白です。このコロナ禍のときに見るべきものを見る力を培う者となりましょう。