「呼び求めるすべての人」( ロマ10:12)

「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自 分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」
口語訳では 「ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を 呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。」 こちらでは区別が差別になっています。

私の幼い時、まだ小さい頃は感じなかったことが、長じてびっくりするような差別がキリスト教界でも次つぎと起きました。「天にまします父なる神よ」 と一緒に祈っても、わたしと隣の人は同じ父なる神の子?と本当にみんな思っているのか、との疑いを抱くようになりました。二つの教団で経験した民族差別と性差別のゆえです。 今は差別されていると思えば闘える立場に居ますし、自分も誰かを差別し、 悲しませているという自覚のもと、一方的な解釈はしていないつもりでいますが。 

本日のテキストの中心は「御自分を呼び求めるすべての人を」に置きます。 どんな人が「神」を求めているのか。方法論はちがっても個々人は人間を超えた大いなる存在を無意識、意識に関わらず求めているでしょう。

ここに、島薗進先生の論考「宗教からスピリチュアリティへ」(「福音と世界 2021年5月号」)があります。 今、無宗教型スピリチュアル層が増えている、と。つまり「スピリチュアル」 だが「宗教的ではない」と自覚する人が多くなっている。伝統宗教を信じることはできないと感じ、かつ科学技術による合理主義的文明には限界を感じている多くの若者たちが、未来の文明の在り方に希望を見出そうとしている。また、 伝統宗教の中で見出され培われるスピリチュアリティとも併存しているという。しかし、島薗先生は宗教伝統が排他性や閉鎖性を強めると(例:福音派や 原理主義)、脱宗教・無宗教のスピリチュアリティへと向かう傾向が強まるかも知れない、とも。

そして結論は「スピリチュアリティ」から「宗教的なもの」 を広く考える必要を説いておられる。 その点から考えると「父なる神」という呼称も問題であり、「神は愛なり、愛は神なり」を真摯に伝え、この世の事象に真剣に関わっていく真のスピリチュ アリティを伝え実践することが、「呼び求めるすべての人を豊かに恵む」ことになるのです。要はスピリチュアリティの根底の愛が問題となるでしょう。