「ありのままで」( ヨハネ4:1〜19)
「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」4:14
「あなたは、ありのままを言ったわけだ」18b
日中の最も熱く、だれも水を汲みに来ない井戸端で出会ったイエスとサマリヤの女。彼女には知られたくない過去と現在の生活がある。
イエスの水を飲ませて欲しいとの願いからはじまる会話。サマリヤの女は自分に水を飲ませてください、という男に常識を超えた何かを感じた。会話が進んで彼女が「渇くことのないように、また、ここにくみに来なくてもいいようにその水をください」と。
イエスはこの願に彼女の生活の現実を当て、ありのままを指摘した。この女性は過去の5人の夫のこと、今の同棲している男のことを告白。
「あなたは、ありのままを言ったわけだ」18b
誰しも、ありのままを告白するには勇気が要ります。自分を飾りたくなる、 隠したくなる。 しかし、ごまかしのきかない誰かに打ち明けることができると分かった時はかえって楽になります。本日のテキストの続き、19節の後は礼拝の真髄が語られます。
「命の水」と「礼拝」の関係を知らされます。
今、わたしたちの大かたはしんどくてもなんとか、なすべきことを淡々とこなして生きています。
でも、もしかして、 ありのまま(まず、自分をごまかさない)を生きるよりは、
装飾品を身に着けて、見栄を張っていることもあります。
今の時代は不透明で先行きが危ぶまれています。それゆえに、サマリヤの女がイエスに出会って、まことのしあわせに気づかされたように、すでに大いなる方によって見透かされている私たちです。親鸞が人生をお花見にたとえて、
「明日ありと思う心の徒桜、夜半の嵐の吹かぬものかは」と唱っています。
願わくば日々あるがままで、渇くことのない水を飲む者となりたいものです。