「魂を想う」(Ⅰペテロ1:3~9)

「あなたがたは, キリスト を 見たことがないのに 愛し, 今見なくても 信じており, 言葉では 言い つくせないすばらしい 喜びに 滿ちあふれています。それは, あなたがたが 信仰の 実りとして 魂の救いを受けているからです。」1ペテロ1:8,9

先週は高校時代の親友と、同じ心理療法を学ぶ友人の二人から、共にたった一人の「姉」の終末期に出会い、どのように接してよいのか分からない、という主旨の電話を受けました。

魂の痛みは病気を患っているご本人とその妹の立場でも遭遇することですが、日常の生活の中ではふだん経験しない非日常の感覚を持ちます。

死と魂の関係は若松英輔氏の10年前の著作「魂にふれる」に次のように書かれています。「・・・時空は私を、妻が亡くなった病室に連れ戻し、その光景をまざまざと見せた。/亡骸を前に私は慟哭する。なぜ彼女を奪うのかと、天を糾弾する暴言を吐く。そのとき、心配することは何もない。私はここにいる、そう言って私を抱きしめてくれていたのは彼女だった。妻はひとときも離れずに傍らにいる。だが、亡骸から眼を離すことができずにいる私は、横にいる「彼女」に気がつかない。」(「魂にふれる」~大震災と、生きている死者217頁)

若松さんの経験は彼のそれからの執筆の中で力強く生きているようです。
カトリック信者の彼が、魂(プシケー、スピリト)とは、の問いを持つ人に執筆をとおして、答えを見つけるヒントにしてください、と語りかけています。

「信仰の実りとして魂の救い」とペテロ書で書かれているのは、迫害の時代に信仰を保つことの困難と信仰を持つことの結果として魂が救われるという勝利を保障している表現です。

スピリチュアルな悩みという表現は、この世を去る時や危機の時に肉体、精神、社会的悩みの深いところに、死後の世界は、私の人生は、神の存在は?という根源的な問に繋がるものです。柏木哲夫氏は「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくりその鼻に《命の息》吹き入れられた」(創世記2:7)の「命の息」を魂と言われます。生きている者はすべて魂を頂いてる存在です。キリストに繋がるのは魂の問題に導かれ、救いの確信を与えられるのです。