「 まことの解放 」   ルカ17:20~23  

『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出ていってはならない。

 本日は日本では敗戦記念日、朝鮮半島では光復節です。76年たちました。

 昨年は日本でも解放記念日としましょうという人たちが現れていました。

光復節はその字のとおり光を取り戻したという意味です。

 しかし、ほんとうに両方とも「解放」に相応しい歩みを成し遂げたと言えるのでしょうか。

 日本は目下の新型コロナウイルスの感染症への対応のまずさ、そして多大な費用をかけてオリンピックに目を向けさすやり方は責任の所在をはっきりとさせない曖昧さをつのらせるばかりです。片や朝鮮半島は南北に分断したままの悲しい姿でほんとうの光復節と銘打つことはかなっていません。

 本日のテキストは21節の「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

に続くものです。「あなたがたの間」とあるのは、原語のエントスから訳すと「あなたがたのこころの中」にと訳す方が正確といえます。

 イエスがローマによって殺され、数世紀たってそのローマ帝国が自国の国教をキリスト教としたところから、「こころ」は「あなたがたの間」でという言い方によって曖昧にされてしまいました。 

 神の国=神の統治は目に見える形の賞賛すべきことに置き換えられ、イエスが語るまことの神の国は変形して伝えられました。

 人で言うと76才「後期―光輝)高齢者」ともなれば、歴史を直視し、人たる者これからいかにあるべき(to be)か生きるべきか(to do)を丁寧に考えて

歩む人生にしたいものです。「出ていって」右往左往するのではなく、こころを鎮めて自分との対話、神と向かい合うことにエネルギーを使いたいものです。