「わたしたちは神の神殿」 Ⅰコリント3:10~17

「わたしたちは生ける神の神殿なのです」 Ⅱコリント6:16

 神の神殿(ナオス)については、関係のある他の新約聖書では以下のようなところがあります。参考までに。新共同訳です。
a 第1コリントの手紙3章10節?17節(302頁)
b 同6章19節?20節
c 第2コリントの手紙 6章16節(306頁)
d エフェソ2章19節?22(354頁)
e へブル3:6(403頁)神の家
 「 わたしたちは神殿 」 といわれても、 今まさに、ミャンマーにせよ ウクライナにせよ他の戦場で凄惨な目も耳も閉じてしまいたいほどの酷い殺戮が続いているさ中で、なにをのんきなことを言っているのか、と、お叱りを受ける羽目になりかねません。

 神殿といっても煌びやかな殿堂でなくて、田舎の片すみにあるお宮さんのようなものを想像したら良いでしょう。

 しかし、どうしてこんなわたしが神殿だと言えるのかと、正直に戸惑いを覚えます。
 ともあれ日本では「私はだめなのよ」とつぶやき、かなりの人が自己評価が低いことは誰もが認めていることです。

 イエスが地上に送られてきたのは、目に見えるこの世の栄の象徴のような神殿に入り、または外から拝んでいる自己評価の低い人たちに、「あなたは神の愛を受けている神の尊い子どもでもある」というメッセージを伝えるためでした
 イエス亡きあとも、弟子たちによって、その思想は「神の神殿」という表現で、みんな例外なく尊い個々人であることを聖書に書き綴られてきました。
 明治、大正時代に静坐をはじめて広めた岡田虎二郎は
 「丹田が神性の殿堂である。殿堂が立派にできて、神性が伸び、ほんとうの人間ができるのである。」といわれました。
 また、たかのてるこさんは最近発刊された本「世界は、愛でできている」の中で
「自分をイジメず 毎日自分をほめちぎること」と薦めています。世界の平和は私たちの心からはじまります。まともに自分を愛する存在になるよう努めましょう。