「切羽詰まった行動」 マルコ5:21~34

イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「私の服に触れたのは誰か」と言われた。30節

 この個所は共観福音書であるマタイ、ルカにも記載されています。ヤイロという会堂長の娘のことも同じく並行しています。

 今日は出血の止まらない女性とイエスのことを考えてみたいと思います。
彼女がどんなに病のことで苦しんでいたかは、見捨てられた様子がかなり具体的にどの福音書にも書かれていることからも解ります。

 そんな中で、切羽詰まった彼女が取った行動は、とにかくイエスという偉大な人の助けがあれば地獄のような12年間の生活から解放されるとの考からきたものです。
 服を触れられたイエスはご自分の内から力が出て行ったことに気づいたけれども、誰が触ったかをすぐに見つけることはできませんでした。

 弟子たちは、その者を捜そうとしているイエスにそれは無理だと言いました。
そこへ、イエスの服に触れて病気が癒された女が進み出て正直に話します。
ここで注目すべきは、イエスは決して自分が治したとは言いません。端的に言うならば自分を使って、神の霊的な力がその女性の切なる祈りに応えたということを知ったということでしょう。
 イエスに力があった、イエスこそ救い主だと、言いたくなるところに、イエス自身も「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と言いました。私たちも誰かの助けになる存在です。

 イエスを、誰かを神格化したくなる人間の習性に「待った」をかけています。

先日4日は私たちとご縁の深かった小倉正宏さんの1周忌の命日でした。生駒の見晴らしの良い霊園にお連れ合いさんと数人で伺いました。その碑に刻まれた言葉は、「天地に存在の永遠にあるを感謝する」でした。永遠は天だけにあるのではなく、地にもあり、自分はみんなのもとを肉体では離れたがいつまでも共に居る、との告白でもあります。突然3時の薄暗い雲の間を突き破るように陽のひかりが燦燦と明るく射して来た様子に小倉さん、いや大いなる存在の共にあることを全員が確認した時でもありました。気づきを研ぎ澄まして毎日を過ごしたいものです。